watermint.org

Takayuki Okazaki's blog

先月は集中的にクラウドコンピューティングについて勉強していました。いくつか調査会社のレポートを読んだり、クラウド研究会に出たり、ブログや記事を読みました。クラウドコンピューティングはまさにこれから本番というところですが、あえて「終わるとき」という思考実験をしてみることにしました。なぜあえて終わるときと言うテーマにしているかというと、過去数年、様々な技術によって約束されてきた成果が、未だ実感できず、一方では今クラウドコンピューティングが約束しようとしている内容が異口同音に同じだからです。本当にクラウドコンピューティングは今抱えている問題を解決してくれるのでしょうか。
_DSC9635.jpg
何かが終わるとき、というと何かが限界に達したことによって技術的、経済的、政治的に成り立たなくなった時です。クラウドコンピューティングのように技術的な側面が色濃い場合でも、経済的・政治的な影響力は無視できません。これまでに人類が経験した限界でいうと、環境汚染による限界がすぐ思いつきます。

  • 排気ガスは無限に空気が薄めてくれると思っていたら、やはり空気は有限で汚れて問題を引き起こしました。
  • 排水は無限に海水が薄めてくれるとおもったら、やはり海水は有限で汚れて問題を引き起こしました。

_DSC2355.jpg
いま、クラウドコンピューティングで夢描いている途中では、「コンピューティングパワーは無限に拡大できる」という風潮になっていないでしょうか。ムーアの法則はIntelをはじめ様々な半導体メーカーの努力によって30年以上を経過した今も維持されていますが、多くの研究者が数年以内に限界が来るだろうと予測しています。また、そもそもムーアの法則は、半導体の集積度と価格についての法則であってコンピューティングパワーに関する法則ではありません。仮にムーアの法則が維持されて続けたとしても、コンピューティングパワーが増え続けるとは限りません。
_DSC2352.jpg
最近ではCPUもマルチコア化が進んでおり、計算能力もクロックアップ一辺倒だった頃と比べると比較にならないほどの速度でパワーアップしています。クラウドコンピューティングのテクノロジーは、マルチコア/マルチCPUに親和性の高いアルゴリズムを利用するため、この恩恵を強く受けています。
Amdahl's Law
Source: Amdahl’s Law (Wikipedia)
一方、マルチCPUアーキテクチャにも限界があり、アムダールの法則はその理論的な限界を唱えています。この法則を単純に信じる限り、ムーアの法則の終わりとともに、クラウドコンピューティングは終わりへと近づいていくように思えます。

一方、Amdahl’s Law in the Multicore Era (Google TechTalks)では、コア・アーキテクチャとアルゴリズムを工夫することによってもっとアムダールの法則を超えてもっと効率的な処理が可能だと主張しています。このような研究が進むことで、クラウドコンピューティングの寿命はもっと延びるかもしれません。
_DSC9618.jpg
次に考えるのはデータセンターの建設場所です。土地は有限ですし、発電所を建てても十分に採算がとれたり、環境上問題が発生しにくくする条件を考えると、無尽蔵に拡張できると考えるわけにはいかなさそうです。コンテナ型データセンターや、地中データセンター、海上データセンターなどいろいろなコンセプトが出てきていますが、廃熱効率が良かったり、電源確保が容易だったりするメリットはあっても、やっぱりそれらは有限の資源を元につくりあげられます。このため、いかにGoogleさんといえども、これ以上大きなデータセンターを持つことができなくなる時代が、そう遠くない未来に来そうな気がします。
_DSC9588.jpg
今回は簡単な思考実験だったので、いつ頃にクラウドコンピューティングが終わるかまで考えませんでした。結論としては、いつかは終わるだろうという程度になってしまうんですが、クラウドコンピューティングの謳う将来的なコスト削減予想に対して、少し判断材料のような素材が手に入ったような気がします。もう少し時間ができたら、具体的な数値を使って検討してみたいところです。

t_yanoさんが「多くの人々の視界からPC的なるものは消え去って行くのか」というエントリでおもしろそうなことを書いているのでそれについて個人的な考察。最近、仕事で扱う主なターゲットがサーバから携帯になったこともあって、この手の思考実験は通勤中などにほぼ毎日考えています。その中でも最近一番気になっている主張が、MITの前田ジョンという人の「コンピュータは道具ではなく素材である」という考え方。
_DSC9336.jpg
3年ほど前にパソコン(iBook)が壊れた時には、3週間ぐらいパソコンも使えないし、インターネットも(家では)にできない状態になって、そのとき何に困ったか思い出してみます。過去のデジカメの写真がみれなくなったとか、ブログが書けない、という程度の不便はあったものの、他は特にさしあたって困ったこともありませんでした。昨年は携帯が2週間ほど使えなくなって、そのときに困ったことといっても特に思い出せません。普通の生活をする上で、携帯もパソコンもあまり重要な位置を占めていなかったということが当時はっきりと分かったことだけは覚えています。
_DSC9334.jpg
必要不可欠に思えていた道具が、いざ使わなく(or 使えなく)なってみると、最初の数日は不便を感じるものの、2週間も経てば別に必須ではなかったことに気づく。使わなくなって久しいものでは、ウチでいうとテレビ。昔はテレビっ子だったけれど、もう何年も家ではテレビを見てない。代わりにラジオを聴くようになったけど、この間ステレオが壊れてしばらくラジオも聴けなくなったときも特に支障がなかった。たぶん、PCとか、携帯とか、テレビは生活スタイルという一見安定的なシステムに組み込まれた素材の一つなんじゃないだろうか。冷蔵庫に残ったあり合わせの素材でもおいしい料理が作れるように、あり合わせのガジェットで生活スタイルを作り上げていく能力はきっと多くの人が持っているんじゃないかなあ。
_DSC9319.jpg
一方、生産システムとか、商業的に使われる意味においてのコンピュータは私たちの生活スタイルを支えるコンピュータの意味とは全然違っていて、無くなったり使えなくなると仕事が成り立たなくなることがほとんど。これは、今日コンピュータで行っている作業を、人手による作業に置き換えた場合にコスト上、ビジネスが成り立たなくなるまでに状況が変化しているからなんでしょう。

VISAがオーストラリアでやっているCMで、技術進化が20年前で止まった世界、というのがあります。タイプライタを持ち歩いたり、一抱えある大きさの電話やテレビを持ち歩いたり。20年前の道具を、今風に使うとどうなるかというシミュレーションでとても興味深い映像ですね。20年前、テレビを電車の中で見るということも無かったし、電話も持ち歩くのではなく、探したり借りるものだったのが技術進歩によって利用シーンが広げられたことを再認識することができます。AppleによるiPod発表の時、スティーブジョブズが、iPodは1,000曲も入るポケットサイズのプレーヤで、1,000曲とはあなたが持っているほぼすべての音楽です。と言っていました。確かに、僕が当時持っていたCD/DVD合わせても1,000曲に満たなかったと思います。たった7〜8年後の今では手元に1,000曲を遙かに超える楽曲やPodcastといったデータが手元にあって、それを納めきることができるiPodのようなデバイスや、携帯電話が無理のない価格で手にはいるようになりました。
_DSC9311.jpg
音楽一つをみてもテクノロジーの進歩と、Appleをはじめとする様々な企業による「仕掛け」によって私たちの価値観は確かに変わったし、結果として生活スタイルは大きく変えられました。この傾向は今後も続くでしょう。一方で、しばらく使わなくなったら、必要性をさほど感じなくなるという危うさも抱えているのも確かです。コンピュータを「道具」であると考え続けていると、ある瞬間に、どんなに高性能で安価な道具であったとしても、生活を構成する素材にならないという理由によって使われなくなってしまうという危険に気づかないままになりそうです。PC的なるものが消え去るときが来るのは、代替する何かが現れたときではなく、生活を構成する素材として認識されなくなったときなんでしょうね。